直違橋の歴史

文禄3年、豊臣秀吉が伏見城を造り、京都との間に直線の伏見街道を新設しました。

秀吉はこの両側に宅地を造成し移住者に無償で分け与える代わりに街路の維持・補修費を分担させました。

その後、稲荷周辺を中心に深草団扇 七味唐辛子、伏見人形等を土産物として売る店が並び、発展します。

幕末の騒乱の後、明治41年、深草に師団が設置され、明治43年には京阪電車が開通します。現在の藤森駅が「師団前」という名称でした。

第二次世界大戦後、軍施設は大学等の施設となり、京都中心部や大阪のベッドタウンであるとともに学生が多く住む町ともなっています。


直違橋の由来

七瀬川をまたぐ橋が川を斜めに横切っているため、直違橋と名付けられたのが直違橋の由来です。

小さな橋ですが、横から見るときれいな円を描いた趣のある美しい橋だと思います。

上は普通に道路で、川も画像のように小さい川なので、普段は何気なく通行していると思います。

直違橋の住民でもこの橋が直違橋と知っている人は少ないのでは?


軍隊の町 深草

直違橋6丁目がある深草は明治から第二次大戦終戦まで軍隊の町でした。

直違橋6丁目のお隣、直違橋5丁目にある聖母学院は、明治~第二次大戦には陸軍が駐屯し、現在の聖母女学院には第十六師団司令部があり、深草周辺には軍の施設が点在していました。

 

現在でも道の名前等にその面影が残っています。

直違橋6丁目から西の南北に走る道路は師団街道。直違橋通りから師団街道を結ぶ東西に走る道は軍道(北から第一・第二・第三軍道)と呼ばれています。

 

余談ですが・・・

伏見は酒どころとして有名ですが、江戸末期に衰退したそうです。

それを盛り返したきっかけが陸軍が深草に駐屯したことによる軍需・民需の増加であったそうです。

伏見の酒の銘柄に勇ましい名前が多いのは軍需を意識して名付けられたからだそうです。

 

琵琶湖疎水の上を第二軍道が通る橋を師団橋といいます。

橋脚に陸軍の五芒星が見えます。



師団街道と第一軍道の交差点。


直違橋通り沿い(極楽寺町)の銭湯「軍人湯」さん

騎兵第二十聯隊跡石碑



藤森神社駐車場横の

京都歩兵聯隊跡の碑


軍施設 現在
第一六師団司令部 聖母学院
第一六師団兵器庫 龍谷大学、警察学校
京都練兵場 西浦町近辺、伏見区役所深草支部、龍谷大学
野砲兵第二一二聯隊 青少年科学センター、藤森中学校
輜重兵第一六大隊 越後屋敷町近辺
歩兵第九聯隊 旅団司令部 京都教育大学
第二十聯隊 深草中学校、西伊達町近辺
第十六師団射撃場 万帖敷町近辺
陸軍病院 京都医療センター
憲兵隊本部 伏見税務署、桃陵団地近辺
工兵第十六大隊 桃陵団地近辺

老人が子等に語る伏見風土記(伏見区老人クラブ連合会)より引用、加筆


私たちの住んでいる町の魅力を発信し、コミュニケーションの一助になればとホームページを立ち上げました。

今後、皆様のご意見やご要望を反映させていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

                                               直違橋6丁目町内会